2008年03月の日記
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●2008年03月29日(土)

皆さんお元気ですか?僕は元気・・・ではありませんでした。
一週間、入院していました。
では、そのいきさつを。

2月後半から3月はとにかく忙しかった。嫁の実家の墓の完成、子供の入学準備、卒園、古物商の許可申請、確定申告、4月の公演へむけての練習などなど・・・。毎日があっと、いう間に過ぎていった。
ある日、のどに違和感と痛みが出てきた。元来、僕は扁桃腺が大きいため、のどはよく痛くなる。少しぐらいの傷みはいつものこととと、サロンパスでも貼ってごまかしていた。でも、だんだん並みの痛さや腫れではなくなってきた。一度は耳鼻咽喉科の病院へ行き、抗生物質などを貰って、少し良くなったので、安心していた。病院へ行ってから3日後、声がだんだん出なくなり、微熱が続き、ご飯が食べられないほどのどが痛くなった。
これはヤバイと、祝日だったのだが、救急で総合病院に。医者が見て一言、「これはすごく腫れていますね。かなりまずいですよ。入院したほうが。」こまる!仕事も芝居の練習もある。「点滴とかで直りませんか?」「うーん、抗生物質は点滴しますが、僕は内科なのでなんとも言えませんねぇ。明日必ず耳鼻咽喉科に来るというならば・・・。」「わかじましだ。」
僕は出ない声で、そう訴えた。入院なんか絶対できない時期だ。通院で直してもらおう。しかし、その夜はのたうち回るほどのどが痛かった。

次の日、約束どおり、その病院の耳鼻咽喉科に。1時間半待たされた後、医者が僕ののどの腫れを見て、「これはひどい!入院だ。」えー、やっぱりか。そして医者は「今から化膿しているところを切開する。」という。以下、擬音で状況を想像してください。
ウェ〜、プス、チュー、グゲェ!!ザク!!!ギョエー!!!!
ジュルジュルジュルー、ゴゴゴゴ、ゲボー!!プルルルル・・・。
わからないかもしれないが、かなり痛いことをされてしまった。口から血をダラダラ流しながら、嫁に入院するから準備して持ってきてくれと伝え、採血し、血をダラダラ流し、点滴し、血をダラダラ流し、入院する部屋へ看護士さんに連れて行ってもらった。

実は生まれて初めての入院だった。何も喋ることが出来ない。もちろん何も食べることも出来ない。点滴で栄養をもらい、僕の入院生活が始まった。

僕の部屋は4人部屋で、残り3人はおじいちゃんばかりだった。ご飯の時間になっても食べることができず、寝ている僕の耳には食欲旺盛な老人達のムシャムシャ、ズルズルがうらやましかった。

その日は、高い熱は出るわ、のどは痛いわで、意識がもうろうとしていた。そんな時の看護士さんって、ものすごく優しい。あーこれが看護士さんを好きになる患者さんが多い理由なのだと実感する。
ただ、僕は意識がもうろうとしていたため、親切にしていただいていることは憶えているのだが、容姿などをほとんど憶えていない。それに看護士さんは半日ごとに変わる。「今日、担当する●●です。」と言われても夕方には違う人になっている。さっきは細くてメガネをかけていた人だったのに、夜はかっぷくの良い人になっていたりする。これでは、顔など憶えようもない。
ま、僕は妻子を大事にしているので、それはそれで良いのだが。

2日目。点滴をまだ打ち、相変わらず食事はのどを通らないが、それでも抗生物質のおかげで少し良くなったような気がした。僕は退院も早いと勝手に考えていた。

そんな期待は午前中の診察でもろくも崩れる。担当医がのどを見た瞬間、「うわ〜!これはひどいなぁ。呼吸できるか?」。僕は「はい、なんとか。」、医者「麻酔しよ。」。ま、麻酔?なんで?のどに麻酔をされ、少し時間をおいて口を開けた瞬間、医者はペンチのようなもので、僕ののどの奥をつかみ、「よし!!」の声とともに引っ張った。ギャー!!のどの奥で何かがちぎれ、血が噴き出している。吸引器で吸っているのだが、なかなか治まらない。医者はファイバースコープを鼻の穴に入れ、のどの奥を見ようとする。「血でのどの奥が見えんな。おい、君、グェーってして。」。僕は言われるがまま、ぐぇ〜とする。トレイには信じられないぐらいの血のかたまりが!!かなり痛いのに、思い浮かんだ考えは、「おいしい。」だった。
「これは、良いネタを仕入れた。バイオハザードのゾンビみたいだ。出来ればビデオにとってホラー好きの常連さんに見せたい!」とほくそ笑んだ僕は、ちゃんとした思考能力を失くしていたのかもしれない。
医者は僕に、「これ以上ひどくなるようなことがあったらのどの下を切開して、呼吸チューブを入れなければならない。」とあっさり言った。

部屋へ帰り、ヘロヘロになりながら寝転ぶ。のどは痛いわ、血は止まらないわ、熱は高くなるわ、さんざんな状態でお昼になる。食事を出来ない僕は、老人達のズルズル、くちゃくちゃを聞いているだけだった。

3日目も、食事を出来ずに点滴を打ち続け、寝ていた。一番つらいのは、食欲はあるということである。胃は正常なのでテレビ(カード式で備え付けのものがある。)でマクドナルドのCMを見て、フライドポテトが無性に食べたくなる。でも、のどは通らない。トンカツも寿司も食べたい!と胃が希望するが、のどが拒否をし、食べさせてくれない。少しでものどを通そうとすると激痛が走る。TVにはおいしそうな食べ物が沢山出てくる。僕はTVをあまり見ず、ラジオを聞くことにした。

4日目になると少しのどの腫れが治ったような気がした。そこで、朝食のゼリーを食べた。のどは痛いが食べられないことはない。牛乳なんか冷えていて気持ちが良い。「これは食べることができるな。」と思い、食パンに手を出す。小さくちぎって食べると・・・だめだ、かなり痛い。でも食べることが出来るということをアピールし、早く退院したい。無理にでも半分食べた。
朝の診察で医者が「食事は食べれますか?」と訊ねる。それきた!僕は「もう食べることができます!」「ほう、ではのどを見せてください。・・・・あーまだだめだな。」医者は毎日の日課のようにのでにメスを入れ、切開する。この日なんか麻酔もしないので切ったのでかなり痛かった。

それでも僕は、その日から出来る限り食事をするようにした。身体が弱っていたので栄養を取るということもあるが、何より「僕は食事が出来るほど治りました。」をアピールしたかったから。早く退院しないと店が・・・芝居が・・・娘は4月から私立の小学校へ・・・これ以上、休めない!!僕はかなりあせっていた。

午後にNさんがお見舞いに来る。喋ることが出来ないし、熱が高いので、嫁と娘以外の家族にもお見舞いを断っていたのだが、公演2週間前で演出の僕が倒れたわけだから今後の話をしなければならない。Nさんは「あとはなんとかしますから、心配しないで下さい。」と言ってくれる。だが僕は「あと2、3日で退院します。」と勝手に宣言していた。後日Nさんは僕の様子を見て、すぐには退院できないだろうと思ったそうである。

5日目。僕は店が心配で外出許可を申請した。この頃には傷み止めの点滴と食事代わりの栄養点滴はしなくなっていたので、午前中の抗生物質の点滴が終われば夜まで点滴はない。

僕は点滴が終わるとすぐに身支度を整え、店に行く。一歩病院を出た瞬間、ふわふわ浮いたような足取りになる。たかが5日間、外に出なかっただけなのに、歩いてる感覚、空気までも違和感を感じた。
元町の店に行き、これまでのいきさつをスタッフに説明し、たまった仕事を片付け、これからの打ち合わせをし、店を出る。4時間もいたのだが、それでも仕事はまだまだ残っていた。
元町より一旦、自宅へ帰る。帰って一番にしたのは風呂に入ること。毎日風呂に入らなければ気がすまない僕が5日間も風呂に入っていなかった。髪の毛は汗でカピカピになり、頭皮はかなり荒れていた。
風呂から上がり、少し食事をしたら、もう病院へ帰らなければならない。自分の家を出るときはかなり寂しく思う。

でも帰り際、僕はいきなり開き直った。こうなったら、寝るところは病院だが、ばんばん外出届けを出し、店に行って、芝居の稽古をして、家に帰って風呂に入ろう、おいしいとはいえないが、決して食事もまずくはない。本を2冊買い、ふりかけも買い、ドリップタイプのインスタントコーヒーまで持って行き、僕は病院生活をエンジョイしてやろうと思った。

そう思った次の日の6日目、医者がのどを見て、「かなり良くなったなぁ。明日、退院するか?」えー、そうなのかよ!!
病院生活をエンジョイするつもりでいたのに・・・。でも、喜ばしいことには違いないので、「はい、よろしくお願いします!」。僕は嫁、店、お芝居仲間にメールを打ちまくり、退院の旨を伝えた。入院中の意識がもうろうの時でもたくさんの用件メールがきていたのに、退院するというメールを送ってからは2件しかメールはこなかった。

かなり元気になっていた僕は、病棟のフロアを探検する。よく見ると最近の病院はかなり充実していることに気付いた。僕の入院していた6階のフロアには中庭などもある。ヘリポート用のためなのだが、花なんかが植えられていて、ベンチに座ってると気持ちがいい。談話室には冷蔵庫、お湯とお茶が出る機械、電子レンジなんかもある。朝の食事をここで食べてみたら、みんなコーヒーや紅茶をいれてカフェのようにくつろいでいる。
「なかなか、みんなくつろういでいるな。」と思ったが、やはり病院、横には点滴を吊るしたポールがあったり、腰には老廃物をためる袋がぶら下がっている人がほとんどだった。

その日の夜は早く寝ようと思った。しかし、斜め前のご老人が、嘔吐をしながら吐血したため、病室は明け方まで大騒ぎだった。僕は寝転んで、その様の音を聞いていた。患者さんも、看護士さんも、お医者さんも、みんな大変だなと当たり前のようなことを何故か改めて思った。

健康な時は気付かなかった病院がそこにはあった。僕たちは普通程度の病気ならば入院などせず、通院する。入院するといううことは、妊婦さん以外、皆さん重病、重症なのだ。一見、元気そうな患者さんでも入院しなければならないほどの症状なのだ。そう思ったら、病院に入院することが大変なことだったのだと感じてきた。
周りの患者さんには申し訳ないが、直って良かった、という思いがベットに寝転がりながらの僕自身にしみじみ伝わってくるような気がした。


退院当日、朝の診察、点滴を終えればいよいよ退院だ。点滴も良く打ったなぁ。抗生物質なんか14本、傷み止めや栄養液などを含めると20本以上は打っている。

退院手続きは一人で済ませ、一人で帰ることにした。入院費を払う時、意外と高かったので、持ち合わせがなく、クレジットカードで支払った。病院も便利だ。

荷物をまとめ、忘れものがないことを確認し、部屋の人に挨拶しようと思った。ただ、病室の他の方々の2人は寝ておられたので、お一人だけに挨拶をする。あまりお話をしなかったのはノドの病気で入院したため喋ることが出来なかったのだと告げ、息苦しい呼吸で迷惑をかけたことへのお詫びとその音を我慢し、文句も言わず寝ていてくれたことへのお礼を言った。

ナースステーションでもお礼を言ったら、担当していた看護士さんが笑顔で見送ってくれた。僕は「よろしければ、今度、お店にも来てください。」と言ったが、後で考えてみたら店の名前も、場所も、連絡先も教えていなかったことに気付いた。ま、これもお互い、社交辞令のようなものだからな。

病院を一歩出た瞬間、大袈裟だけど自由を感じた。たった一週間だったけど、僕には長い日々だった。

大きな紙袋とリュックを持って、駅まで5分ほど歩き、電車に乗って最寄り駅まで。そこから又、5分ほど歩いて、我が家についた。そこにはいつもと変わらぬ妻と娘がいた。
なんだかホッとした。

退院の喜びなど味わう暇もなく、帰宅から2時間後、僕は仕事をしに元町のお店へ向かっていた。お芝居の練習も2日後から再開。一週間後の公演もなんとか無事終わりました。

男の厄年を3年も過ぎたのに・・・今頃、災厄が来るとは思ってもいませんでしたが、これも人生における経験だと肥やしにすることに決めました。

これで僕の病院日記は終わりです。最後に、高いと思った入院費も保険に入っていたためチャラになりました。掛け捨てで、もったいないと思っていた保険ですが、いざという時には役立ちます。備えあれば、憂いなしということです。(僕は保険会社の回し者ではありませんが・・・)

あと、もう1つ。かの有名なタウン情報誌の最後のページの占いでは、僕が入院し、退院するまでの辛い日々は全てニコニコマーク(吉といううことでしょうか?)だった。特に僕が入院した、ひどい目にあわされた日は歯もむき出しの超ニコニコマーク(大吉ということでしょうか?)だった。信用度ゼロの占いだった。ま、実は最初からそんなもの信用してないのですけれどね。

以上、店長でした。



●2008年03月08日(土)
今週は小ネタから。
1つ目。3日前、信号待ちをしていた時のこと。隣にごく普通の兄ちゃん。年のころなら20代前半かな。ニットキャップにアーミー風のジャケットはよく見るスタイルだ。でも、足元が・・・便所のスリッパだった。水色にウサギの絵が描いてあり、「Toilet」と書いてあった。わざと履いてる。何故なら薄汚れていたから。
兄ちゃん、それはファッションじゃない。ただのズボラだ。機能的にも道路を歩くようなソールはしていないぞ。お芝居仲間のケルビーノさんは、間違えて街中を歩いたことがるそうだが、街中で便所スリッパは、かなりカッコ悪いということを認識した日だった。

2つ目。昨日、ランチを食べに行こうとした時のこと。
落ち着いた雰囲気で、ボリュームのあるランチを食べさせてくれるお店がある。僕はここが気に入り、何度か通っている。
その日は和風ポンズ付きから揚げを食すつもりだった。店の50メートル手前、調理場の兄ちゃんが急いで店を出て、走っていった。
僕はつり銭が切れて両替に行ったのかと思った。店に入ろうとすると・・・いつもの女の子が「すみません。ご飯がなくなったのでクローズです。」と言う。ご飯が・・・ないのか。
たしかに「ご飯とスープはお替りOK」と書いてある。
今までに何度か店が米切れの経験あるのだが、人並みはずれて米を食う人がいる。そんなお客様が来たら店は大変だ。名目上、お替りと言われれば出さないわけには行かない。ランチで人寄せをするため、そういうお店は多いのだが、覚悟しなきゃな。
女の子に断られて店をチョット離れた時、調理場の兄ちゃんとすれ違った。手には「なか卯」のビニール袋、買ったご飯の丼が3つ入っていた。

今週は『ガチ・ボーイ』。
今までに何度も書いたが、僕はプロレスが好きだ。古くは大御所の馬場と猪木、ボボ・ブラジル、ザ・ファンクス、アンドレ・ザ・ジャイアント、タイガー・ジェットシン、ブルーザー・ブロディ、ハルク・ホーガン、スタン・ハンセンかな。最後に気合を入れて見ていたのは前田日明のリングスとJWPだったかな。デビル雅美と長与千種戦は良かったよな。
総合格闘技といわれるようになった初期の頃は熱心に見ていたのだが、最近は何だか試合が面白くなく、見たり、見なかったりしている。

『ガチ・ボーイ』は学生プロレスの話なので、昔のプロレスのりが少し観れれば良いかな程度で観に行った。

でも、クライマックスで僕は涙がチョチョ切れそうになった。そこにはプロレスがあった。プロレスの倒れ方、つらそうな呼吸の仕方、格闘技ではないプロレスだった。

最初のシーンは少しグダグダなところもあるのだが、五十嵐(佐藤隆太)が事故が原因で、寝て起きると一日前の記憶がなくなる病気であることが仲間の2人に分かるところから、映画の画面に釘付けになってゆく。劇中で五十嵐が父親(泉谷しげる)に言う。「昨日の記憶がないのはつらい。楽しかったことも、嬉しかったことも全て忘れている。こんなのは生きている意味がない。」確かにそうだ。人は記憶があるから生きてゆける。記憶の中で生きているといっても過言ではない。昨日の思い出がないと言うことは一週間先も、一年先もずーっと思い出がないのだ。嫌なことは忘れられるかもしれないが、人は嫌なことも人生の教訓として生きているわけだから、学ぶことが出来ない。劇中、五十嵐が好きな女の子、朝岡(サエコ)に告白する。朝岡は泣きながら、「これで4度目の告白で、私が奥寺さんが好きだといったことも2度目よ。」と言う。記憶がないから何度も告白してしまう五十嵐が辛かった。

でも、プロレスは身体が覚えている。記憶はなくても、身体中の傷をみれば思い出せるような気がする。このシーンでもグッとくる。そう、自転車に一度乗ることが出来れば、5年以上乗っていなくても大丈夫なのは身体が感覚を覚えているからだ。身体は、記憶する。それを理解させてくれる映画だった。

ラストのマリリン仮面(佐藤)、レッド・タイフーン(向井理)のタッグとシーラカンズとの試合は、臭いけど血沸き、肉踊るプロレスだった。マリリン仮面のドロップキックが決まる時、きっと熱いものがこみ上げる事、請け合いの一本です。

ちなみに僕にとっての覆面レスラーはデストロイヤー、マスカラス、ドスカラス、タイガーマスク、アステカイザー、ライガーぐらいだな。

少し演劇っぽいセリフやギャグが気になりますが、今回はかなりおすすめです。

以上、店長でした。





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